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あなたは知ってる?430年以上続く大阪城の驚くべき歴史とは?
※この記事は2020年8月27日に掲載されたものです。
最新の情報は、公式ホームページ等でご確認ください。
大阪の人気観光スポット「大阪城」は、今までに2回も姿を変えていたことをご存じですか?
初代の大阪城は1583年~1585年に豊臣秀吉によって建てられ、2代目・大阪城はは1620年~1630年の間で徳川秀忠に建てられました。現在の大阪城は、1920年代後半に行われた「天守閣再建」によって建てられたものです。
織田信長と本能寺の変
現在の大阪城がある土地は「西本願寺」というお寺の跡地で、元々は織田信長という戦国武将が持っていました。
信長は自分の手で跡地に大阪城を建てようと計画していましたが、1852年におきた「本能寺の変」によってこの野望は途絶えてしまいます。
当時の政治体制を良く思っていなかった家臣の明智光秀(信長の部下のような人)が信長を裏切り、反乱を起こしたのです。
本能寺に宿泊していた信長に対し、約13,000人もの大軍を率いて急襲。
無敵といわれた信長もさすがに敵わないと思い、最後は本能寺に自ら火をつけて自害してしまいます。
好都合の立地を活用した大阪城の建設
一連の事件で所有者のいなくなった西本願寺の跡地。
実は城を建てるには絶好の場所でした。図で見てみても、周りが川や堀に囲まれている様子がよく分かります。
引用:大阪城公園鳥だより
大阪城は大阪湾とも近く、淀川をはじめとする河川や湿地に囲まれています。
そのため「城を敵に攻められにくい」「河川や大阪湾を利用した海運による貿易をしやすい」などのメリットがあったんですね。
これに気づいたのが豊臣秀吉です。
秀吉は部下に他の武将に先を越されないために急いで城を築くよう命じ、1583年~1585年の間で完成させました。
好立地に城を築き、ついでに全国統一を果たして大満足だった秀吉ですが、1598年に死去し大阪城は2代目の豊臣秀頼が住むようになりました。
そしてしばらく経った1615年、大阪夏の陣がおこります。
大阪夏の陣とは、秀吉の死後に力を強めていった徳川家康を大将とする江戸幕府と、日本一の座を譲りたくなかった豊臣家との間でおきた合戦のことです。
江戸幕府の戦力は約165,000人に対し、豊臣軍の戦力は約55,000人。差は歴然としていますね。
江戸幕府軍によって大阪城は攻め落とされ全焼、日本統一を果たしていた天下の豊臣家は滅亡しました。
※写真は緊急事態宣言発令前に撮ったものです。
5年経った1620年、江戸幕府2代目大将の徳川秀忠が大阪城の再建を命じます。
9年の歳月をかけ、1629年に新しい大阪城が完成します。
ちなみに、再建を命じた際秀忠は「とにかく大きく立派な城を建てるように」と言ったそうです。そのため出来上がった城の大きさは秀吉のときの2倍、石垣の高さは約30メートルにもなりました。現在も残っている石垣は、日本一の高さを誇っています。
それからしばらくは大きな争いや事件もなく時間が過ぎていったのですが、1665年に大阪城は2度目の災難に見舞われます。
落雷で城全体が焼け焦げて無くなってしまいました。
再建しなかった理由は定かではありませんが分かりませんが、1928年まで大阪城が建つことはなく天守台だけの時代が続きました。
いま現存する大阪城の再建が決まったのは1928年、当時の大阪市長の提案からでした。
全国から支援金を募ったところ750億円ほどが集まり、約2年をかけて3代目大阪城が完成します。1995年には「平成の大改修」と呼ばれる改修工事が行われ、現在の形になりました。
秀吉の頃から430年以上の歴史をもつ大阪城。
今までに何万人もの人が関わって作り上げられたと考えると、見るだけでも歴史の流れを肌で感じることが出来るのではないでしょうか?
大阪城の周りに建てられている歴史的な建物の多くは、国の重要文化財に指定されています。大阪城を観光する際は、あわせて関連施設で大阪城の歴史を詳しく調べてみてください!